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  • 執筆者の写真生 吉村

奥深き、水路上園芸

先日、路上園芸学会の村田あやこさんと、古隅田川や千間堀を歩いてきました。

その時の様子を、村田さんがさんたつの記事に書いてくださっています。


この日はあいにくの雨ではあったけれど、雨であったことが記憶から消えそうなくらい、すばらしくピカピカと、輝いた日だった。目の前の「水路上」の各々が、輝いていたのだ。すでに歩いている場所だというのに。


たとえば、この容れものが洗濯槽だったなんて。石臼か何かだと思っていた(ほぼ気にしていなかったということ)。



だいたい、「洗濯槽だけ」が取り出されている状態を見たことがない。シダと一体化したこの姿を指し、専門家然とした人が「これはシダ類をより育ちやすくする特別なプランターです」とか言ったなら、間違いなく信じるだろう。


それを、見るなり「あっ 洗濯槽!」って言う村田さんはなんだか、魔法使いみたいだった(そう言われると、目の前のスクリーンが切り替わる感じなのだ)。


次はここ。稲が植えられているのは知っていたけど、お店の方にちょっと話を聞いてみるだけで、随分世界が広がった。



このお米屋さんでは、随分たくさんのお話をした。便乗して暗渠情報も得るわたしたち。店主の話を聞く限り、古隅田川にはそんなに汚い・臭い時期はなさそうだった。



次はこの中華料理店。実はこのお店の路上園芸を村田さんに見て欲しいと思っていたのだけど、まさか、村田さんがそこから激レア転職鉢を見つけるとは、想像もしておらず。




あとは記事と関係ないところで、





古隅田川上の花壇。ここは現在はこうだけれど、


以前は準備された煉瓦がまるで花壇に向かう階段のようだったから、「(花壇に住む)小さいおじさんのための階段」と名付けていた。



煉瓦の階段がなくなってしまったことは、そりゃ寂しいけれど、小さな謎が一つ解けたとも言える。

やっぱり、時々見にこないと、路上の「点」は変わるのだ。わたしが「小さいおじさんのための階段」に出会えたのは、作業途中という偶然の産物だった。水路上園芸、一期一会。



他、(これはもう暗渠でも園芸でもないけども)バレンチノの「髪染め放題」が気になったり、




まさかの「暗渠に向かって下がるんじゃなく、謎池に向かって上がる自前階段」に喜んだり、




窓枠ぴったりになるように育てられた絶妙すぎる樹木や、移動機能のついた路上園芸など、園芸的に濃いとわたしが感じるものも、まだまだあった。


村田さんが路上の樹に対し、「これはきっとお店の開店祝いに贈られた植物が、外に出されて育ったもの」などと推測しているのも、とても興味深かった。そこにはもう営業している店舗はなかったけれど、どんな店があったかを想像したりした。


わたしは植物そのものへの知識が乏しい。それもあって、水路上の園芸の、ぼやけた輪郭がみるみる明瞭になっていくような体験だった。また、植物・園芸の情報を知ることによって、いま在る人の営みを感じられるばかりでなく、数年前の風景、数年後の想像までできてしまう時がある。

これまで見ていた暗渠上のアイテムは、車止めや蓋みたいに、変化が鈍いもの・経年劣化してやがてなくなるものばかり。一方、植物には、変化する勢いがある。むしろ、増える・生まれていくといった、ポジティブな方向性も有していることは独特なんじゃないだろうか。



この日のさんぽは、ゴールを決めていて、そこもとても楽しみにしていた。以前から「行かなきゃ」と思っていた地点。(詳しくは記事をご覧ください。)



この写真の左端に水路がある。この写真の中の人に話が聞けて、水路の思い出にも触れられたのは、格別のお土産となった。



こんな風に、わたしの水路上観察(&暗渠さんぽ)は、基本的には想像をするとしたら過去を遡る方向だ。けれどこの日はそれに加えて、「あの木々が育って森になる」などと、半ばふざけながらも、わたしたちは未来の想像もしながら歩いた。もしかすると、それで「ピカピカと輝いた」印象になったのかもしれない。

いずれにせよ、路上園芸の視点の奥深さを感じた1日だった。村田さん、さんたつの編集者さん、お世話になり、どうもありがとうございました。

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