暗渠サインと呼ぶものの中に「銭湯」があり、また「釣り堀」がある。
どちらにとっても排水の便が良いわけであるが、かといって、特に水路(暗渠)の近くに建てられていない銭湯も釣り堀もある。優先すべき立地条件が、他にあるのだろう。
阿佐ヶ谷の駅近くに大正時代からある釣り堀「寿々木園」は、桃園川支流の相沢堀がすぐ横を流れていたし、とにかく風情が良いので(あと、日本閣と関係するその歴史も)、何かと原稿に登場させたり、ツアーで寄ったり、主人にインタビューしたりしてきた。
寿々木園の隣には、銭湯があった。開楽湯という名で、阿佐ヶ谷に長く住む人にとっては「ああ、あそこね」という感じ(最近まであったかのような)。紙の地図上で、阿佐ヶ谷の駅近で銭湯と釣り堀が隣り合う様子は本当に良くて、今もあったらなぁ、と何度思ったことか。
この写真は、寿々木園のかたにインタビューした時に、撮らせてもらったもの。寿々木園の敷地内に飾ってある。ちょっと昔の、今よりもイケスが多かった頃の写真だ。
ちゃんと、開楽湯の煙突が見えている。
実は長らく私の頭の中では、開楽湯の位置が、実際の位置と異なって配置されていた。上記の写真は、釣り堀から阿佐ヶ谷駅方向を見ている、と、なぜか思っていた。
けれど、本当は逆だった。阿佐ヶ谷駅側から荻窪方向を見ているのだった。
なぜ、わたしはそのような思い違いをしていたのだろうか。
それはもしかすると、寿々木園の隣に銭湯があった時代が、2回あるからかもしれない。
昭和63年のゼンリン住宅地図、それから、昭和15年の火災保険特殊地図を並べた。
昭和15年の方には、相沢堀が描いてある。釣り堀のイケスがちょっとわかりにくいかもしれないが、家が角張っているのに対し丸みのある形をしており、つり堀、池、池、と書いてある。そしてその北東に、「喜久湯」とあるではないか。
もう一枚、地図を見てみる。
こちらは昭和29年の火災保険特殊地図。釣り堀のイケス、相沢堀の流路などがくっきり見え、暗渠サインである材木店やクリーニング店などが水辺近くにある。右上から一本、水路が伸びているが、相沢堀は2流あり、釣り堀の脇を通る流路(の、この位置より右側の流れ/川端通り商店街の流れ)は昭和10年代に暗渠化済みである。したがって、もう一本の傍流が顔を出していると考えられる(現在そこは車止めの並ぶ、いかにもな暗渠道だ)。
で、どこを見ても昭和29年の地図には、銭湯はない。
昭和15年以降昭和29年より前に喜久湯が廃業し、昭和29年より後のどこかの時点で、開楽湯が開業した。同じエリアの銭湯が経営者や名前を変える例は比較的見てきたが、この阿佐ヶ谷駅前の銭湯は、少なくとも居抜きで交代したわけではないようだ。だがどちらも、相沢堀の隣に位置し、暗渠サインとしての確率を上げてくれている。
喜久湯の隣にあった傍流の流路は、大部分が跡を残さず判然としない。昭和63年の地図で焼肉屋が載る位置、ここには今も焼肉屋があり、そのアプローチが川跡感を醸し出している、とずっと気になっていた。そこを歩き、焼肉屋さんで焼肉&ビールがしてみたいのだが、はてさていつになったら行けるのやら。
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