遊廓と水路〜札幌、薄野と白石の場合〜
- 生 吉村
- 7月23日
- 読了時間: 8分
札幌の歓楽街ススキノには、かつて薄野遊廓があった。
薄野遊廓の存在時期は明治4年〜大正9年にかけてであるが、その後も赤線になるなどして色町の機能は残り、今に至っている。
所謂「大門」や「見返り柳」などの遊廓らしい名残はないため、薄野遊廓の(現代における)知名度はそれほど高くはないような気がするが、実はひっそり、ススキノの南側にある豊川稲荷神社の境内にある碑や玉垣に、その痕跡があったりする。


遊廓らしい四角い地割も、札幌市街地の碁盤の目の中に埋没してしまう。
それゆえ現代の地図から薄野遊廓の境界線を見出すのはなかなか難しいのだが、大正5年の地図を見ると、薄野遊廓の輪郭が浮き出ているので、その範囲がわかる。

この正方形の点線のようなものは、おそらく土塁を指している。薄野遊廓は当初、「ススキの生えた野っ原のど真ん中」に、「低い土塁で囲って」作られていたのだそうだ。
たまたま久しぶりに昔のブラタモリ(札幌)を観直したところ、現在でも、ススキノでこの土塁のぶん道路幅が違う場所があることが話されていた。私の残念な脳はその部分を記憶してくれていなかったので、先日ススキノをうろついた時、土塁跡に行くことはなかった。残念なことだ…(どうやら関心が暗渠>>>>>土塁のようである)
さて、私の関心はもっぱら、水路の有無である。上述のように大正の地図には遊廓を囲う水路が見当たらないがおそらく省略されているだけで、明治24年の地図を見ると、薄野遊廓の西の一辺、そして南の一部を水路が流れている。橋もある。

最も東を流れるものが創成川(元は大友堀)で、これは今も開渠で存在する。
その一本西にあるものが西2丁目通りを流れる胆振(いぶり)川で、現在はない水路だ。
まだこのあたりが野原だった明治の頃、家屋は創成川付近にあったため、住民は埋め樋(暗渠)を通してこの2本のどちらかに排水していたそうだ。次第に家屋が増え、この2本では足らなくなり、下水路を増やす必要が出てくることとなる。
そうして、新たに引かれたのが画像の中央に見える新川(明治18年開削、西5丁目通りを南北に流れる)だ。この新川が、薄野遊廓の外周の一部を流れていたことになる。
遊廓と水路の関係はその時代や地理的条件によりさまざまであるが、薄野の場合は、遊廓ができた後に排水路が掘られた(おそらくは遊廓を囲んでいた土塁のさらに外側に)という関係性となる。
明治24年の地図からもわかるように、新川には橋も架けられていた。橋といえば、遊廓の入口近くにある橋は遊びに行くかどうかを思案する「思案橋」であることが多い。
名称は不明だけれど、この位置に架かっていた橋が、思案橋のような位置付けに思えた。

新川が直角に曲がる位置には現在、すすきの市場がある。その細長い形状とレトロな佇まいが印象的であり、地図上でも現地でも目を引く存在だ。
古い市場は川沿いに作られる(&自然発生的に)ケースが少なくないため、市場は暗渠サインでもある。

札幌の投稿をXにしていた時、団地マニアの照井さんが、すすきの市場の上部はURの団地だと教えてくれた。この建物には興味を惹かれてずいぶん眺めていたが、まさか団地だとは思わなかった。というか、ススキノに団地?!しかもこの場所は薄野遊廓の内側であるわけで、なんだか混沌としてくる。
あまりに不思議な、すすきの市場の建物。夜にも確認しに行ったところ、地下に「ススキノ発祥の地 ススキノゼロ番地」なんてものがあった。


団地ができる前から、すすきの市場はここにあった。最初の市場は大正11年に設置されている。なるほど薄野遊郭が白石へと移転した後である。「第二公設廉売市場」という名称で、木造平屋のバラックに近いものであったという。
そして市場の前には、新川が流れていた。当時の新川は、「柳が茂り底が見えるほど澄んでいた」とされ、サケやマスの子が泳ぎ、子どもたちの遊び場となっていたという。
大下水として掘削された新川であるが、特にこの位置は創成川から分岐してすぐのところで、下水といっても台所の排水と雨水くらいであったろうから、きれいな川だったのだ。
昭和11年、市場の建物は老朽化により改築された。そしてこの時、市場の敷地拡大に伴い新川は埋められてしまった。現在の団地と飲み屋を備えた「すすきの市場」が建ったのは、昭和33年のことだった。
ススキノに最初にできた銭湯は「越の湯」(明治36年創業)といい、南7西4にあったという。より上流(南)側だ。サウナに転業し、今はもうない。正確な位置がわからないのだが、この銭湯も新川沿いにあった気がしてならない。
また、成田山(札幌別院)の西隣には冒頭で触れた豊川稲荷札幌別院があるが、この南向かいに「札幌座」という芝居専用の舞台があったそうだ。川沿いに芝居小屋があるケースは全国にあり、これも暗渠サインである。
その芝居小屋があったあたりと思しきところに、斜めの道がある。碁盤の目の中にある斜めの道は怪しいことこの上ないが、明治24年の地図を見ると、このあたりで道と新川が並行している。

つまり、新川の影響を受けて斜めになった道がこれで、新川はこの写真の左側の建物のあたりを流れていた、と推測できる。道と新川、どちらが先かにもよるけれど……
さて、薄野遊廓は建設当初こそ郊外にあったわけだが、まちが発展することにより、札幌市街の中心といえる場所になってしまった。そうなると、さらに郊外に追いやられるのが遊廓の運命だ。薄野、というか札幌遊廓も例外ではなく、大正8年、豊平川を挟んだ「外側」に移転することとなる。
移転先となる白石遊廓は、菊水にあった。(「札幌遊廓」が正式名称かもしれないが、混乱を防ぐためにも通称名の「白石」と呼んでいくこととする。)白石遊廓は菊水駅を出てすぐのところにあり、街区がそのまま残っている。
しかしながら建物等は(名称さえも)なにも痕跡がなく、菊水公園と菊水神社だけがあり、ここに遊廓があったと言われなければ、やはり見つけるには難しい状況となっている(文献によれば、昭和51年時点では2〜3の建物が残っていたという)。

菊水公園には、白石遊廓の説明板があった。これがあるとないとではかなり違う。しかも丁寧な説明板で、全ての妓楼名が載っていて感動した。

白石遊廓にも水路があったそうだが、大門通りの真ん中を流れていたという。前傾の看板の航空写真では水路を確認できない気がするが、昭和23年のものなので、埋められた後なのかもしれない。
当時の記憶がある人が書いた文献によれば、「道路の中央には小川らしいものが掘られて、絶えず清水が流れ」ていて、小川の淵には柳の並木もあったそう。
また別の人の記憶では、「冬になると牛太が家の前の雪を道路の真ん中に持っていって積む」ので、「それでは川も柳もあったもんじゃない」と。そのことと関係するのかはわからないが、いつの間にか川もつぶした、ということだ。
遊廓の中央を水路が流れている例は、ぱっと思いつくところだと、同じく北海道の小樽・松ヶ枝遊廓(中央を入船川が流れていた)や、福井県の武生にあった尾花遊廓(中央を町用水が流れていた)がある。この2つは、現在もその水路が同じように流れ、周辺の街並みと異なる風情を醸し続けている。この2つのまちの場合、遊廓だけでなく、より広範囲にとって必要な水路が存在していて(松ヶ枝は山で湧いて流れてくる水の通り道、武生は周囲にとって必要な用水路)、遊廓なき後も変わらず水が流れ続けた。
いっぽう白石の場合、絵葉書を見ると水路は実に小さなもので、雰囲気を作るために掘られたもの、という印象がある。豊平川からの取水だろうか。
思案橋的な橋があるか、という点についても、絵葉書を見る限り、門の前に橋は架かっていなかった。水路が小さすぎて、土管で道を潜っていたのではないかと推測する。

そんな小さな水路だったので、埋めても周囲には影響がなかったのかもしれないし、単に流れを止めればよく、地下に流れを移すようなものではなかったのかもしれない。
薄野遊廓と白石遊廓で暗渠を探して歩いたわけだが、どちらにも一応水路は存在した。
そして奇しくも、理由は違えど似たようなタイミング(戦前)に埋められたようだ。早々と埋められた水路の多くがそうであるように、どちらの水路も現在その痕跡を見つけることは非常に難しい。
けれど、傍に暮らした人たちの語りは多少残っているので、それらを元にほそぼそと想像しながら歩く。雪に覆われた街並みのように難易度の高い、北海道の遊廓の暗渠探しでありました。
<参考文献>
薄豊明『すすきの千一夜物語』
谷川美津枝『ものいわぬ娼妓たち 札幌遊廓秘話』1984年
坂東孝平『白石歴史ものがたり』1978年
牧野拓道『すすきの今昔』1976年
円山百年史編纂委員会『円山百年史』1977年

コメント